3回目の記載

なかなか書き始められないものだ。Facebookは気軽にアップ出来るのだが。

今日が3度目のブログ。

ほぼ日5年手帳を見ると、突然の嗄声が始まったのが去年の2月初旬。ウイルス感染かな? と愚考し、経過を見ながら何度か耳鼻科受診し喉頭ファイバーで診てもらうと左の声帯麻痺はあるも、形態に異常なし。頚胸部CTでも著変認めず。

その後、院内耐性菌対策などで慌ただしく過ごし、掠れ声ながら仕事にはそれほど支障なし。

5月9日には藤沼先生、順天練馬の坂本壮先生、北医療センター南郷先生、感染症の羽田野先生、健康長寿センターにいる松原知康先生らと懇談。

漸く、6月5日自院でGISを受け頚部食道の病変を確認す。

そこからは怒涛の数週間だった。徐々に嚥下時の違和感は強まり、注意しながらの咀嚼。でも、6月末までに巣鴨「栃の木や」でFM3(藤井政美トリオ)蕎麦ジャズ、桜新町「ネイバー」でFM3+たまき鈴のBossa、武蔵野芸能劇場で「王女アイシュ」と楽しむ。

27日には順天練馬で青木眞先生の「感染症診療の原則」拝聴。「久々の目の醒めるようなレクチャー」 と5年手帳に記す。

29日入院。頚部食道がん(扁平上皮癌、StageⅢb〜Ⅳa)切除不能、DCF(docetaxel+cisplatinum+5FU) → conversion Opeの方針。

入院初日午後から早速ルート確保持続点滴開始と慌ただしい。が、日記に「スカイツリーが美しい」と記す。

翌30日の日記(ほぼ日5年手帳)には、「もう住んでるみたい」「夜SONGS宇多田ヒカル」と記す。わりと冷静。この日に「ブログ始めよう。タイトルは"Aequanimitasをめざして"」と記す。始めるまでに8ヶ月掛かった!

今こうしてブログに記すことが出来るということは、取りも直さず、治療が奏功しているということであり、治療スタッフ、友人、同僚、家族のおかげ以外何ものでもない。

振り返って思うのだが、この、一年前の比較的冷静な記載、胆力などではなく(最初は少しそう思ったのだが)、ただ単に私が少し鈍感であるということかと思う。

どなたかが「鈍感力」という言葉を使っておられたが、ときには「鈍感力」もいいもんだ、と勝手に思うのだ。

それにしても2月の頚胸部CTで見えなかったものが、3ヶ月ほどで気管を圧排し空隙は数ミリを残すのみにまで成長するとは食道Caとは恐ろしいものだと実感する。幸いにも、本当に不幸中の幸いにもStageⅣaで遠隔転移がなかった、Mゼロであったことで治療が可能であった。

さて、こういうのをComing outというのかな。

頭にあったのは戸塚洋二さんの「がんと闘った科学者の記録」(Few more months)である。比ぶるべくもないが、医療者の立場で幾ばくか記す価値があればと願う。

高校(広島大付属高)卒業時、記念の一文を毛筆で残す習いであったが、そこに「医を志し、文学に挑む」と大それたことを書き残している。今や赤面するほかないが。

これから不定期に書き継いで行こう。