OCDな私

一昨日、治療開始後丁度1年目の諸検査を受けた。胃カメラ、造影CT、血液検査。

いずれも異常なし。内視鏡で見ると頚部食道表面の凸凹は残っているが、毎回のバイオプシーで「放射線食道炎後の所見」とされている。

3ヶ月ごとのフォローアップで、カメラを飲み込むのも随分上手くなった。(と自画自賛

今回の担当医も、私が内科医の端くれであることをご存じない様子で「あ、飲み込むのお上手ですね〜」「あ、心配なさそうですよ〜。前回と全く同じで〜す」「さぁ、スムースに終わりましたぁ〜」と褒めて下さる。

ベテランナースはカメラ実施中、ずっと背中をさすり続けてくれ、これが大いに緊張をほぐしてくれるのだ。

30分ほど回復室でうたた寝をし、外来診察室へ移動。

流れるように事は進み、役割分担の決まったプロフェッショナル集団の作業リレーに感嘆する。

外来では主治医Dr.Kの簡潔にして適確な説明を受け、「ちょうど1年ですねぇ。CR維持です。この調子で行きましょう」の言葉に、検査直前の若干の不安も払拭され、100歳まで生きそうな気分になる。(そんなはずはないのだが)

 

と同時に、はっと気付いた。

「あれ、昨日までサクロデラックス(コルセット)巻くほどだった腰痛が、どこかへ飛んでった」

「ははぁ、これが清田雅智先生が言うところのOCD(強迫性障害) spectrum disorderとしての腰痛か」

などと妙に納得する。

一旦、患者として受診した際には、徹底して患者に成り切ることで、かえって医療者としても得るものは大きいのだ。
そして、結構図太いと思っていた自分が、実は「メタかもしれない」というOCDに陥っていたらしいことに気付くのだ。

人間弱いものだ。

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OCDとしての疼痛



誕生日が巡って来た

65歳の誕生日である。

去年の今頃、正確にはもう少し後(6月中旬頃)、1年後の誕生日が迎えられると想像するのは難しかった。

目に焼き付いている内視鏡所見、日増しに強まる嚥下困難、咳、病理所見と造影CT、PET-CT所見。

だが、ほぼ日5年手帳をめくってみると、FM3ライブの記録、「王女アイシュ」観劇の記録、経堂「やま長」を訪ねたことなど淡々と記している。

実務的な事柄も、Dr加藤、土方に伝えた、Dr塚本、新見院長、事務長に伝えた、呼吸器内科全員に周知し事後のことを頼んだ、これでよし。などと記している。

もちろん、家族各々にも自分で告げたことも簡単に記してある。

患者自身から家族に告知、というのも、思えば不思議な形ではあるが。

やはり、肚を括ると、人間冷静になるものか、いややはり、ここは得意の「鈍感力」というものだろう。

まずは1年経過、この1年の周囲の皆さんへの感謝を心に刻み、今夜は家族全員集合である。

さあ、今日は少し早く帰ろう!

削げ落ちて行くもの

(承前3/30)

昨年の初回入院の少し前、自院の信頼する外科医に施行してもらった内視鏡検査で頚部食道に見るも無惨な病変を確認した。

ちょうど1年前には、彼に東京初〆サバによるアニサキスを取ってもらったのだが。

今回は硬く変質した食道壁からバイオプシーのサンプルを採ってもらうことになった。

尊敬する病理部長の、これ以上ない迅速な診断を得てSquamous cell Carcinomaが確定した。ステージはⅢb〜Ⅳaだ。

PET-CT、造影CTの結果、遠隔転移はなさそうだ。

人生は一変した。が、存外に呆然とはしなかった。(鈍感力の由縁であるか?)

それよりも、色々なものが削げ落ちてゆくことを感じた。

先ず、「余計な感情」がスッと抜け落ちて行く感があった。

何だと思われるだろうか。

 

「うらみ、つらみ」である。

自分では、この手のエモーションというのはそれほど厚くない方だと思っていたのだが、気付いてみると「あの野郎、あのときあんなこと言いやがって」とか、「あいつ、あのとき裏切りやがって」とか、けっこう根に持つタイプだったと悟った。

それが自分の内側で、次々とチャラになっていった。

もう、そんなことに拘っている暇はないのだ。

人生、あてどのないマラソンから、急にすぐそこにゴールラインを引かれた100メートル走に切り替えられたようなものだ。

無駄な情感に浸っている暇はない。

 

次に「夢と展望」が抜け落ちた。

治療の効、無効によって予後に違いはあるだろうが、診断確定時の病期による5年生存率など基本的なデータは揃っている。

最早、長期的展望に立って物事を考えることは出来ない。儚い夢を持つこともないのだ。

だが、落ち込むことはない。ここでかつて西部邁氏が若者の人生相談に答えた一節を思い出した。「自分には夢がない」と問う若者に対して西部氏は「僕は一度も夢なんか持ったことはない。それよりもなにか人の役に立つことはないか考えよ」と諭す。

よし! これならまだ出来る。

「一日一善」昔の人はいい言葉を残したものだ。

西部氏もまた、いい問答を残してくれたものだ。著者によると全て酒場での即興即答であるとのことだが。

この感覚は、初回入院の1st chemotherapyの間、そして退院後の休薬期間と変わりなく続いた。

 

新章 神様のカルテ

いよいよ大学病院編である。

主人公栗原一トは、作者 夏川草介の「分人」のひとつであるかもしれない。

もちろんフィクションであるが、エピソード一つ一つは、間違いなく実際にあった出来事に取材しており、一トの言葉と行動には作者の実際と願望とが混然としているに違いない。

前作から三年、気づいたことは、主人公とは別に作者自身のリアルな視点がより鮮明に盛り込まれ、もう一人別の主人公が、一トと彼を取り巻く人々を見守りつつエールを送っているが如きであることだ。

物語は大きな展開を持った。

大学付属病院という日本独自の在り方について、これほど的確でフェアな描写を他に知らない。

異論はたくさんあるだろうが、私は著者の「苦心」のあとに、ただただ敬意を表する。

おまけだが、夏川草介氏の日本酒についての薀蓄に共感し、かつ嫉妬する。

山田錦と、雄町についての一文など敬服の至り。

而今 雄町」一献かたむけたいものだ。

次作を楽しみにするとともに、医者としての原点に立ち返りたいとき、「神様のカルテ 1」をいつでも手に取ろう。

オスラーがイデアであるとすれば、栗原一トは原点である。

子規「病牀六尺」のことなど

昨年の手帳を見返すと6月29日〜7月5日、1回目の入院とある。入院初日午後から早速DCF(Docetaxel+Cisplatinum+5FU)開始。あれよあれよと思う間に持続点滴のルート確保、輸液ポンプがセットされ、行動半径はベッド周りに限られた。

子規「病牀六尺」を思い出す。

そういえば、前項で触れた戸塚洋二さんのブログの中に、子規の「悟るということは、いかなる場合にも平気で死んで行くことと思っていたが、そうではなかった。悟るとは、いかなる状況でも平気で生きていることだ」という意の文章が引用されていた。

戸塚先生は「これだよな!」と我が意を得たそうだ。

私も、なるほど、と感じた記憶があるし、今も変わらない。

 

病棟での担当のI先生から「1回目のケモの効果が間に合わない場合、挿管呼吸管理した上でも、1回目のレジュメは完遂したいと思います。その際は院内の気管支鏡チームに依頼します。よろしいでしょうか?」という簡潔にして明解な説明があった。直立不動という言葉がピッタリの意を決した姿での言葉であり、一も二もなく「もちろん結構です。お願いします。」と、おそらくは息子と同世代のI先生に答えた。

外来で説明を受けた内科、外科各々の主治医の先生からの説明、そして病棟での若き担当医からの説明を聴き、「このチームに命預けます」の意は固まった。

不思議なもので、その肚が括れると、「人生の中で時間的にもフィジカルにも死に最も近づいているかもしれない瞬間」であっても、心は落ち着きを取り戻すものだ。

生涯初めての持続点滴のルートを眺めながら、振り返って窓外のスカイツリーを眺めながら、「静かな部屋だ。なに読もかな」などとぼんやり考えていた。

 

内科医の端くれでもあるので、ケモセラピーに伴う色々な副作用は想像の中にあり「いったいどんなやつが襲って来るのやら」と備えていたが、意外にも恙無く輸液は進み、2日も経つと、入院前に極期に達していた嚥下困難は劇的に改善し、「なんだかノドの滑りが良くなったな」と実感したものだ。
おそらくは初日13mgあまり入っていたデキサメサゾン(ステロイド剤)の効果で周辺の浮腫が取れたせいかも、などと愚考する。

記念に撮っておこうと、スマホで「自撮り」を試みるも、慣れないのでうまく行かず、所謂「変顔」みたいになるのであきらめた。が、室内洗面台の大きな鏡に映る自分の姿をそのまま撮ってみると、「自撮り」像よりも遥かに画質もよく美しい(?)自画像が撮れたので、これを保存することにした。
いいチームに担当していただいたおかげで、なにかしら安穏としたスタートが切れた昨年梅雨時であった。

 

少しずつ「ほぼ日5年手帳」を辿りながら、記録して行こう。

 

3回目の記載

なかなか書き始められないものだ。Facebookは気軽にアップ出来るのだが。

今日が3度目のブログ。

ほぼ日5年手帳を見ると、突然の嗄声が始まったのが去年の2月初旬。ウイルス感染かな? と愚考し、経過を見ながら何度か耳鼻科受診し喉頭ファイバーで診てもらうと左の声帯麻痺はあるも、形態に異常なし。頚胸部CTでも著変認めず。

その後、院内耐性菌対策などで慌ただしく過ごし、掠れ声ながら仕事にはそれほど支障なし。

5月9日には藤沼先生、順天練馬の坂本壮先生、北医療センター南郷先生、感染症の羽田野先生、健康長寿センターにいる松原知康先生らと懇談。

漸く、6月5日自院でGISを受け頚部食道の病変を確認す。

そこからは怒涛の数週間だった。徐々に嚥下時の違和感は強まり、注意しながらの咀嚼。でも、6月末までに巣鴨「栃の木や」でFM3(藤井政美トリオ)蕎麦ジャズ、桜新町「ネイバー」でFM3+たまき鈴のBossa、武蔵野芸能劇場で「王女アイシュ」と楽しむ。

27日には順天練馬で青木眞先生の「感染症診療の原則」拝聴。「久々の目の醒めるようなレクチャー」 と5年手帳に記す。

29日入院。頚部食道がん(扁平上皮癌、StageⅢb〜Ⅳa)切除不能、DCF(docetaxel+cisplatinum+5FU) → conversion Opeの方針。

入院初日午後から早速ルート確保持続点滴開始と慌ただしい。が、日記に「スカイツリーが美しい」と記す。

翌30日の日記(ほぼ日5年手帳)には、「もう住んでるみたい」「夜SONGS宇多田ヒカル」と記す。わりと冷静。この日に「ブログ始めよう。タイトルは"Aequanimitasをめざして"」と記す。始めるまでに8ヶ月掛かった!

今こうしてブログに記すことが出来るということは、取りも直さず、治療が奏功しているということであり、治療スタッフ、友人、同僚、家族のおかげ以外何ものでもない。

振り返って思うのだが、この、一年前の比較的冷静な記載、胆力などではなく(最初は少しそう思ったのだが)、ただ単に私が少し鈍感であるということかと思う。

どなたかが「鈍感力」という言葉を使っておられたが、ときには「鈍感力」もいいもんだ、と勝手に思うのだ。

それにしても2月の頚胸部CTで見えなかったものが、3ヶ月ほどで気管を圧排し空隙は数ミリを残すのみにまで成長するとは食道Caとは恐ろしいものだと実感する。幸いにも、本当に不幸中の幸いにもStageⅣaで遠隔転移がなかった、Mゼロであったことで治療が可能であった。

さて、こういうのをComing outというのかな。

頭にあったのは戸塚洋二さんの「がんと闘った科学者の記録」(Few more months)である。比ぶるべくもないが、医療者の立場で幾ばくか記す価値があればと願う。

高校(広島大付属高)卒業時、記念の一文を毛筆で残す習いであったが、そこに「医を志し、文学に挑む」と大それたことを書き残している。今や赤面するほかないが。

これから不定期に書き継いで行こう。